書くことがないのなら

毎日文章を書いていく。

前はもっと時間があったのだろう。

書く文字も丁寧だったので非常に読みやすい。

時系列的に1日に行ったことが書かれている。

行った場所、会った人がすぐにわかる。

書かれていることも記録というか事実だけではなく、その時感じたことも入っていたような。

書くことがない日なんてないはずだ。

もし、病に倒れて今のように健全に体が動かなくなったら、

そのようなことを、簡単に、短い時間でこの間考えていた。

その時は、手が動かなくなるとは想像しなかった。

入院することになるとする。

ベッドの上で寝ている。

上半身くらいは動かせる、起きあがれるかもしれない。

自分の意思で簡単に移動することができなくなる。

そしたら、どのように生きていくのだろうか。

それでもすること、できることは何だろうか。

と、考えてみて浮かんだのはやはり書くことだった。

そこから生み出せるものは多い。

自分にしかわからないこと。

自分でも効果はわからないが、何かが生み出されるという感覚。

そして、うまくいけばという表現はおかしいが、お金を得たり、生きてく上で現実的なものを調達するにあたり何かの役に立つかもしれない。

むしろ、書くこと以外に何ができるのだろうかとも思った。

文字をタイプすることができなくなったとしても、話して打ち込むことができるではないか、と想像した。

文章を文字に起こす。

それでは個室が必要になってくるのかもしれない。

それはそれで面倒だ。

何て考えている余裕はそこに存在しないかもしれない。

けど、書くことすらできなくなったらどうなるのだろう。

それを想像することはできない。

 

そして、書く手段を失うということは、ほとんどありえないのだが、ありえたとして、あまりにも大きすぎるものを失うことになるのではと感じた。

書くことができないとなぜ困るのだろうか。

それは、書くことは山ほどあるから。

毎日生きていれば書くことは山ほどあるはずだ。

何かを考え、見て、感じ、体験しているから生きているわけで、まだ死んでいない。

書くべきこと、書くことができることは山ほど存在しているのだ。

それを表すことができないとしたら、それは苦しい。

「書くことがないなら、遺書をかけ」。

確かにそうだ。

もし、書く手段を失って、思考を表せなくなったら。

その時にまだ家族や愛する人に伝えていないことがあったとしたら悲しすぎるではないか。

だから、もし今日書くことがなければ、遺書をかけ。

 

 

2017.2.26