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他人の視点

あまり、他人の視点というものを気にしない。

気にする事柄と、気にしない事柄がはっきりと分かれている。

文章を書くことに関しては気にしないことが多い。

自分のことばかり書いている。

自分の頭の中のこと。

その渦巻いている中身を、自然と文章という形で出していく。

出てしまうという感じではない。

手を通じて、文章になっていくのだ。

そんな時、他人にことはほとんど気にならない。

自分が思ったことや感じたこと以外に書くべきことなんてあるだろうか。

ということではなくて、書かれることとはそういうものなのだ。

それは避けて通れないものだ。

間違いない。

 

プロのスポーツ選手に、記者がインタビューを行う。

激しい試合の後で。

勝った選手だけでなく、負けた選手にも取材をする。

それは主として、選手のタイミングを問わない。

冷静な判断ができないとわかっていて困難な質問を与える記者。

なぜ負けたのか。

どうするべきだったのか。

四年後に向けてどう取り組んでいくのか。

それは貴社の役割だと、誰かが言っていた。

それを問うてくれる人は少ないと。

厳しさや期待を与えることで、選手は成長すると。

望まれる回答に、選手がたどり着けるように仕向ける記者。

何が起こったかわかっていないのに、急に現実に引っ張られていく選手。

果たしてどれほどの効果があるというのだろうか。

それは、誰のためなのか。

他人の目はどれほど必要なのだろうか。

 

しかし、確かに、多くの人にとって自分の考えを表現する機会は少ないのかもしれない。

問われる機会が圧倒的に足りていないのかもしれない。

時に、頼まれていなくても自分の考えやこだわり、やってきたことやこれからしたいことを長い間話すことができる人もいるが、そんな人は少数派だ。

あなたの意見は、と問われてから初めて考える人も世の中にはいるのだろう。

うあや、しかしながら、考えていても表していない人が多いだけだ。

それでうまくやっていける人もいるし、耐えられなくなる人もいる。

 

自分の考えなんて本当に存在するのだろうか。

他人の目を気にしないなんていうことができるのだろうか。

 

時に、自分の考えを書き出すことも他人との会話のように感じることがある。

誰かと、麺と向き合っているような感覚。

本当に一人だと、考え事などできないのかもしれない。

本当に一人ぼっちになった人間なんて、歴史上ほとんどいないのだし、そんな人が記録したものも少ないだろうから。

自分の中に他人の視点を持つということも可能だろうか。

 

2017.2.10

 

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