読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

缶コーヒーとテニス

今日は電車の座席に座ることができなかった、

目の前に席が空いていたのだが座らなかった。

多くの人が、席を譲ろうとして空間を大きくしてくれたが、遠慮した。

その理由は一つの缶。

空席の隣に座っている女性の横に、缶コーヒーがあった。

缶コーヒーがあったというよりは、コーヒーの空き缶があった。

遠目から見ていても、中身がそれほどないかからであることは明らかであったし、必要なものというよりは、もう必要がなくなったものとしてその場に置かれていることが伝わってきた。

その間があったので、座ることをためらい、座らない選択をした。

座らなくても自分には特に不便はなかったし、座らない選択をしたい気持ちは時間とともに高まっていった。

その感覚を刺激した一つだけの理由は缶コーヒーでしかないのだが。

その女性が置いているのではないかと思った。

彼女は降りる際にその缶コーヒーを持っていくことをしなかった。

体に密着していたので、自分のものであると認識して、そこに置いているのかと思った。

他人のものであるとしたら、嫌な気分になって椅子から降ろしたり自分が移動するのではないかと思うのだが、そのような様子は見受けられなかった。

しかし、彼女はまったく間に興味を示さず、むしろ忘れているような感じで急いで電車から降りていった。

はたして、缶コーヒーは誰のためにそこに存在していたのだろうか。

そんなことを一時間も考えて文章にしている自分のためにあったのだろうか。

 

日付が変わること、テニスの世界大会の重要な試合が始まろうとしている。

世界中の人々が名前を知っているような選手たちが戦う場。

コンディション調整に細心の注意を払っているだろうし、頂上に立ちたい気持ちは皆強く全てをそこに注いでいるような人々が集まる舞台だ。

どのような規則があるのかはわからないが、果たしてなぜ、日付をまたぐ頃に試合を始める必要があるのだろうか。

長い試合は数時間にも及ぶこのスポーツで、誰が、通常の生活では睡眠に入る時間と言える深夜に試合をしたいと思うのだろうか。

そして、その場に集まっている観客。

翌日が休日である、一年に一度の祭典だから、など、それらしい理由は山ほどあるのかもしれないが、なぜこれほど楽しみながら試合を見ているのだろうか。

これは常識的なことで、驚く方がおかしいという種類の出来事なのだろうか。

まったくわからないことが多い毎日で、考える時間は山ほどある。

これは一種の幸せではないかと思う。

 

 

2017.1.21