短編小説を書くこと

誰が、短編小説を書こうと思うのだろう。

小説を書こうと思って書く人は、どれくらいいるのだろうか。

結果的に小説が出来上がっていた、ということはあり得るだろうが、それは自然なことなのだろうか、よくあることなのだろうか。

文章を書くことは、私に多くのことを考えさせる。

一人称で書いている間は何も進歩がないのではないかと思って時期もあった。

自分に向けて文章を書いているだけでは、面白くないのではないかと人に言われたこともあった。

書いているときは、そんなことを考えない。

書いたものを読み返すこともほとんどない。

けど、書くことについて考えさせられることは多い。

自分の場合は、自分と対話しているような気がする。

もちろん、文章を書いているだけで、他人と会話しているように感じることは不可能なのかもしれないが。

文章の中で、二人以上に対話をさせることは難しいのではないかと今思った。

そのようなことをさせたこと、した記憶がない。

毎日、文章を書いていくことがどうしても私には必要だった。

実際にそうであっただろうし、そうではなかったと思いたかったし、そうあるように毎日努めて動いてきた。

毎日ではなくても、毎日分の文章がどこかに記録として残っている。

それは、その事実は私を支えている。

これからも、死ぬまで私は書き続けていくだろう。

その過程でいつか、新しい、これまでに挑んだことがない文章やスタイルを生み出していくのだろうか。

そこでは、幾人もの登場人物が会話を交わしているかもしれない。

はっと息を飲むような描写が至る所に散りばめられているのだろうか。

全く読み応えのない文章になっているかもしれない。

キーボードを叩いて文字を打ち込んでいくということもいつまで続くかわからない。

喋った言葉が文章になるとしたら、それは、書くという行為と異なるのだろうか。

書くことで生み出された言葉と、話された言葉や考えは違うものなのだろうか。

 

短編小説を書こうと思う人はどんな人だろう。

小説を書きたい、と思うのだろうか。

短めの方が伝わりやすい、うまくまとめることができると思った結果なのだろうか。

長編小説を書くだけの気力や技術が不足していたのかもしれない。

はたまた、長さなんでどうでも良いし、短編小説という名前を、読み手が生み出して勝手に名付けたのかもしれない。

どのような経緯で物語が生まれるのか。

そしてそれはどのように分類され味わわれていくのだろうか。

いつか私の文章も、人の方を向いて歩いていくのだろうか。

 

2017.1.13