3月3日

その話は、そんなに時間がかからないで終わるべきだ。

何時間も話をする。

気づいたら四時間も経っていた。

お互いが、微妙に気を使っている。

微妙なやり方で、相手のことを、自分のことを大切にしている。

その気の使い方がどこか、自分にはなれないものだった。

 

もし、話を続けて良いと言われたら、自分はどこまでも話すことができただろう。

そして、私は話したいことがたくさんあった。

旅のこと、読んだ本のこと、映画のこと。

最近の出来事に関して。

なんでも話すことができた。

自分としては、最近、人に知って欲しいと思うことがたくさんあった。

自分で話していても楽しいと感じるし、聞いてる人を楽しませることができると思える内容をたくさん持っていた。

自分だけでなく、相手も満足するだろうという確信のようなものがあった。

 

だが、この人たちは話すときに気を使っている。

簡単な言葉を選ぶようにしている。

そうでないと、そこに参加している全ての人が話についていけないと思っているのだろうか。

その暗黙のルールに従って話が進むので、いつまでたってもそのスピードは上がらない。

笑って、食事をして、飲んで、ゆっくりゆっくりとしか進んでいかない。

それにもどかしさを感じていることは明らかだ。

だが、それすら楽しんでいるように見える。

 

こんなに遅くていいのか、とは私は気になってしまう。

よ時間もその場にいたが、話したことをまとめると35分ほどに収まるのではないかと思う。

いや、確実にそれほどの時間で収まる。

もっともっと、たくさんんおことを面白おかしく話すことができるはずだ。

変に気を使わずに、お互いが積極的に話すことができれば知的好奇心も満たされるであろうし、学びや気づきをたくさん得ることができるだろう。

自分のためだけでなく、相手のためになることが、そこには山ほどあるはずだ。

 

いつまでも気を使っていては、何も進んでいかない。

ゆっくりまったりとするときもある。

何年も付き合っていて進歩がないというのは実にもったいない。

もっと、できることをしていくべきではないのか。

みな、良いものを持っているわけだし、自慢し合うような人が集まっているわけではない。

今度会う時は、もっと良い話ができるように。

もっと、時間を大切にして、良い意味で気を使い会えるように、

そんなことを痛烈に感じら1日だった。

まとめてしまうとなんとも味気ないものだった。

そんな風にはなりたくない。

言いたいことを言い合うべきだ。

 

2017.3.3

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A Day In The Life

1日に1枚の写真をとるとする。

1秒の動画でも良い。

しかし、1秒の動画というのは少しパッとしない。

少しではないかもしれない。

全くパッとしない。

1秒という限られた時間では動画の持ち味を引き出すことができない。

動画であるからにはその移り変わりがよく見えたり、その中からストーリーが読み取れるものの方が良い。

1秒ならば、とても短いが写真の方がイメージを残しやすいのではないだろうか。

 

1日に1枚の写真を選ぶ。

これまでに撮ってきた、何万枚もの写真の中から。

それだけでも相当の時間がかかるはずだ。

1日に1枚写真を撮ってきたとも言い切れない。

ある日には、何百枚もの写真を撮ったであろう。

旅行先で、これまで見たこともないような景色に感動して、終わりがないようにシャッターを押し続けた日がある。

その対象は都市の景色であったか、圧倒的な大自然だったであろうか。

1日に、たった1枚の写真も撮れなかった日も積み重なっているはず。

それはなぜだろうか。

天気が悪くて外に出る気がしなかったのか。

表を歩いていてもとる気分になる対象が存在しなかったのか。

それとも、あまりにも忙しすぎてシャッターを押し逃してしまったのか。

仕事が大切で、食事が大切で、というのは理由にはならない。

写真は1秒で取れるはずだ。

毎日、どこかで変化は起きている。

美しいものだって汚いものだって、その目には必ず何かが映っているはずだ。

それを記憶に変えることは容易ではない。

なんらかの形で記憶を外部化することを人はこれまで習慣としてきただろうし、これからも、装置や手段は変わるとしてもそれを止めることはなさそうだ。

ある程度の期間は。

 

毎日、何かを見落としていないだろうか。

見落としている瞬間、人はそれを見落としていることに気づかない。

ある時の写真を、無意識的に何気なく撮っていて、後で振り返ったら多くのことを思い出すことがある。

だが、取り逃がしたものは何も生み出さない。

撮っていて、その写真をよく見ていたのにそれがなくなってしまった時はよくその写真の風景を覚えているだろう。

 

1日に1秒の写真を選んでいく。

生まれてから死ぬまで、何枚分、何秒分になるだろうか。

それを選び出すのにどれだけの時間がかかるのだろうか。

どれだけ技術が進んでも、選択するものは限られている。

そういう限界も今後はなくなってしまうのかもしれないが。

取りまとめることは、まだこの時代において重要なことだろう。

過去を、見続けること。

 

2017.3.2

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3月1日

過ぎ去った日々。

1日何が起きていたのか。

自分は何をしていたのか。

それを思い出すことは簡単ではない。

その出来事が起こってから、少しの間なら、より正確に思い出すことができる。

時間が流れてしまうと記憶も変化していく。

自分が思い出さない限り、自分の記憶は誰も目もしれくれていない。

その日に何が起こったのか。

それ自体も重要で、そこから何を感じていたかも重要だ。

毎日がなんとなく流れていくのを止められるのは自分しかいない。

 

そして今、多くの時間が流れた。

たった一週間前、二週間前のことでも、正確に思い出すことは難しい。

そんなことをする必要はないかもしれない。

一週間前何をしていたかを思い出すことが、長い人生の中でどのような効果をもたらすのだろうか。

3月1日は水曜日だった。

その日も、いつもの時間に起きたのだろうか。

朝食はおそらくご飯。

体調は悪くなかったはずである。

駅まで急いで走っていく。

天気も悪くなかったように思う。

その日は何を楽しみにしていたのか、今では思い出せない。

フランスに行くことが決まった日はいつだっただろうか。

その日はもう決まっていたのか。

確定申告に向けて焦りを感じ始めた頃だろうか。

今日は時間が余っていて余裕があると思っていたかもしれない。

 

昼飯はどこで何を食べたのだろうか。

ステーキを食べに行ったのはいつの日であったか。

一人でコンビニでおにぎりを買って、外を散歩していたのは先週だったか、それよりも前の週なのか。

仕事は忙しかったのか、何時に切り上げて帰ってきたのか。

進まないことばかりで苛立っていたのかもしれないし、やる気がなくなってしまったのかもしれない。

どうだったのだろう。

 

記憶に残るような日は、人生でどれほどあるのだろう。

多くの人の記憶に残るような強烈な出来事ではなくて、個人的に忘れられないことがあった日。

そしてそれは劇的なことではなくて、何気ないことであった日。

そんな日はほとんどないような気がする。

毎日いろんなことを感じているはず。

喜んだこと、悲しんだこと。

いろんなことに悩んでいたはずだ。

もっと才能を発揮できる。

今のままではもったいないということを言われた日はいつだったであろうか。

その日は確実にあったけど、それが3月1日出あったかわからないし、日付にこだわる理由もない。

だが、それはいつかの日で、その日にはきちんと日付というものがあった。

今日はどんな日だった?

そんなことを聞いてくれた人がいる日だっただろうか。

 

2017.3.1

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How

どうしたら、美しい世界を伝えることができるだろうか。

もう少し正確に言うと、どうしたら、自分が美しいと感じた景色を、自分以外の人に伝えることが得きるだろうか。

それは必ずしも、自分が感じたように人に感じて欲しいのではない。

その人にも、その自分が美しいと感じた景色があることをまず知ってもらいたい、そして見てもらいたい。

そして、何かを感じてもらいたい、というのもあるのだが、何かを感じるのは当たり前なので、その人なりに感じて、楽しんで欲しいと思っている。

こんな場所があったのかということ、このような世界の見方があったのかという驚きや発見。

一人だけで世界を見ていてはわからないこと。

他人に気づかされることはたくさんある。

毎日生きていればそんなことばかりだ。

だが、驚きや面白さや新鮮さは、思っている以上に当たり前のことではない。

日々、目の前で起こることにどれだけ目を向けられているのか。

目の前、で行われているからといって全てが目に映っているわけではない。

あるいは、映っているのかもしれないが、意識に刻まれるほど認識されていないのかもしれない。

 

世界は本当に美しくて。

それを見逃している、と人に言いたいわけではない。

嘲るわけでも、批判するわけでもなんともない。

余裕がある人にはそれが見えるという話でもないし、余裕がなくとも見るべきものを見ている人はいる。

日々、生きている。

そして、様々な景色を見ている。

同じ場所にいたとしても空を見上げれば、毎日同じではないことに気づく。

晴れか、雨か、曇りか。

一年中同じ気候の場所でさえ雲の形は変わる。

太陽や月は昇ったり沈んだりというか、相変わらず移動を続ける。

 

空はとても青いが、雲がなければ美しいというわけでもない。

枯れた花の方が、満開の花よりも味があるかもしれない。

 

どうしたら、自分以外の人と、この気持ちを分かち合うことができるのだろうか。

これ以上に、私が共有したいものはない。

そのために今思うのは、私が美しいと感じた景色を見せること。

見せるというよりは、表していくこと。

いつか、誰かに必ず届くと信じている。

いや、すでに届いているのを私が気づいていないだけなのかもしれない。

わたしが誰かにこの美しさを伝えようとしているように。

 

世界は本当に美しい。

この文字ですら、カラフルに見えてしまうほどに。

そんな世界を、自分の中だけにしまっていてどうするのか。

心が躍る瞬間を、日常の中に。

あなたに届けるために。

 

2017.2.28

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時間

今日もとても焦っている。

しかしこれは、とてもよい種類の焦りだ。

自分でやりたくてやっている。

やりたいことが多すぎて仕方ない。

そんなことはあまりないのかもしれない。

他人と比べてとか、自分の過去と比べてとか、そういうものはさておきとにかく今、やりたいことが溢れている。

やるべきことがその中に幾つか紛れ込んでいるからさらに焦っているのだろう。

他のことは頭に入ってこない。

自分のやるべきことに邁進していくだけ。

今がそんな状況だ。

 

書くことに関しても世の中は変わってきている。

どれくらいの文章。

量、質、その他もろもろ、

どのように評価されていくのか。

読まれた量、質。

人はいつまでも、書き続けていくのだろうか。

いつの日か、書くことは過去のものとなるのかもしれない。

一部で残る可能性はあるが、最も主流な記録の方法が書くというものではなくなっているのかもしれない。

文章を、文字を打ち込むことも書くことだと思う。

今の時点では。

指を動かして、頭の中にあるものを表していく。

書きながら考えている人も多いのだろう。

書いているのか、考えているのか、表しているのか。

自分にもわからないやり方で、スピードでその行動は進んでいく。

 

紙とペンだった頃の時代と今の時代では、人の考え方やその表し方に大きな変化はあるのだろうか。

それを誰がどのように調べればよいかもわからないが。

けど、先を考えてみると多kな変化が起こりそうな気もする。

結果的には、どんな変化も当たり前のものとして受け入れられるのが人間という生き物だろうが。

だが、どんな時もその変化が起こっている最中は、みな苦労したり奮闘してきた歴史もあるだろう。

書くことは、今後変わるかもしれない。

音声入力が主流になるとしたら、今のままではいかなことも出てくるのだろうか。

 

今の技術の音声入力と、それが完成されて、主流になっているものでは大きな違いがあるだろう。

どれくらいの精度で、スピードで入力というか表現が行われていくのか。

話し言葉か書き言葉か。

それによって読みやすさも変わるだろうし、評価も変わるのだろうか。

喋らなけば文章は書けなくなってしまうのだろうか。

書くことのメリットやデメリットが改めて洗い出されているかもしれない。

 

だが、この書くという行動や思考はどうなるのだろうか。

同じように思考を正確というか、意のままに表現し続けられるのだろうか。

もしくは、今以上に伝えたいことが伝わりやすくなるのだろうか。

 

 

2017.2.27

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書くことがないのなら

毎日文章を書いていく。

前はもっと時間があったのだろう。

書く文字も丁寧だったので非常に読みやすい。

時系列的に1日に行ったことが書かれている。

行った場所、会った人がすぐにわかる。

書かれていることも記録というか事実だけではなく、その時感じたことも入っていたような。

書くことがない日なんてないはずだ。

もし、病に倒れて今のように健全に体が動かなくなったら、

そのようなことを、簡単に、短い時間でこの間考えていた。

その時は、手が動かなくなるとは想像しなかった。

入院することになるとする。

ベッドの上で寝ている。

上半身くらいは動かせる、起きあがれるかもしれない。

自分の意思で簡単に移動することができなくなる。

そしたら、どのように生きていくのだろうか。

それでもすること、できることは何だろうか。

と、考えてみて浮かんだのはやはり書くことだった。

そこから生み出せるものは多い。

自分にしかわからないこと。

自分でも効果はわからないが、何かが生み出されるという感覚。

そして、うまくいけばという表現はおかしいが、お金を得たり、生きてく上で現実的なものを調達するにあたり何かの役に立つかもしれない。

むしろ、書くこと以外に何ができるのだろうかとも思った。

文字をタイプすることができなくなったとしても、話して打ち込むことができるではないか、と想像した。

文章を文字に起こす。

それでは個室が必要になってくるのかもしれない。

それはそれで面倒だ。

何て考えている余裕はそこに存在しないかもしれない。

けど、書くことすらできなくなったらどうなるのだろう。

それを想像することはできない。

 

そして、書く手段を失うということは、ほとんどありえないのだが、ありえたとして、あまりにも大きすぎるものを失うことになるのではと感じた。

書くことができないとなぜ困るのだろうか。

それは、書くことは山ほどあるから。

毎日生きていれば書くことは山ほどあるはずだ。

何かを考え、見て、感じ、体験しているから生きているわけで、まだ死んでいない。

書くべきこと、書くことができることは山ほど存在しているのだ。

それを表すことができないとしたら、それは苦しい。

「書くことがないなら、遺書をかけ」。

確かにそうだ。

もし、書く手段を失って、思考を表せなくなったら。

その時にまだ家族や愛する人に伝えていないことがあったとしたら悲しすぎるではないか。

だから、もし今日書くことがなければ、遺書をかけ。

 

 

2017.2.26

Day

1日が早い。

間に合っていない。

今日はそんなことばかり感じる。

 

一年前には、自分は何をしていただろうか。

そんなことを振り返る時間があった。

一週間前ですら何をしていたか定かではないが。

考えていたことも、前のように記載されていないことも多くなった。

この一年で大きく何かが変わったのだろうか。

 

一つ驚いたことは、一年前にものすごく、嫌なことをしていたということ。

誰かに対してではなくて、自分がとても苦痛に感じることに参加していたということ。

積極的ではなかったが、なかなか耐え難い経験だった。

そんな事実はほとんど忘れていた。

 

自分のエネルギー源を考えてみることは非常に重要だ。

何のために動くことができるだろうか。

もしくは振り返ってみて、何のためだったと感じられるだろうか。

いま、それはうまくいっているだろうか。

 

自分にははっきりと嫌なことがある。

そして、求めていないもの、求めたくないものがある。

そんなものに、一年前はたくさん出会っていたのだろう。

充実している部分もあった。

毎日の時間の流れは今よりもっとずっと贅沢だった。

早くその頃のように戻りたいと思う。

目の前にたっぷりと時間があって、すべての構成を自分が考えていた。

外の芽をもっと気にしないで、深くに潜り込んで見ればよかった気もする。

 

今になってやはり思うのは、干渉のしすぎは良くないということだ。

必要な時にいてくれること、それが最も大切である。

誰かがいる、支えてくれる、何かを起こしてくれると信じられていけば、進んでいくことができる。

十分な状態なのに過剰に声をかけたり、他人に影響を与えようとするのは、間違っていることが多い。

悪影響というか、迷惑になってしまうことがある。

だが、それを認識していない人が多い。

そうならないように気をつける必要がある。

進んでいくものを妨げる必要はない。

羽を伸ばそうとしているなら、遠くからそっと見守ること。

 

なぜ、そんなことをするのだろう。

真剣にそう思うことがどれほどあるだろうか。

もっと問うてみるとよいかもしれない。

 

何のために、何を感じて、何を感じたくて。

そういうものがあるから人は動いていくのではないか。

一年経てば、確実に今の自分が想像できない場所にいる。

いいことも悪いこともくぐり抜けているだろう。

だが、欲しいもの、いらないもの、これは自分の物事ではないということは、自分以上にわかる人が決していないものだ。

だから、そこには自信を持って、道を踏みしめていけ。

 

2017.2.25

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