読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

2.24

Today is the day that my life has changed.

 

この日を長く待っていた。

心のどこかで。

以外と早くやってきた。

あっという間に、待っていたということも忘れるように。

最近毎日が早い。

 

決められたことをやる。

そんな風に過ごしているわけではないが、やることはやった。

とても割り切れるようになってきた。

わかることが増えてきたのだろう。

その中でも大きな変化の一つ。

今月は、とてもとてもよい動きができた。

相変わらず間に合っていないことは多い。

だが、それはさらなるこれからの楽しみだ。

楽しくて仕方ないことが、これまでより多く待っている。

 

気に入っているものに出会える日だと期待していたからだろうか。

とてもいい日となった今日。

音楽と、映像と、文章と。

その日に幾つかのものが届いた。

その世界に十分に入り込むことができた。

そしてそれはまだ終わっていない。

これから味わう。

 

自分の方に、時間が回ってきたのだろうか。

最近は、自分のこと、周りのことをしっかりと考えられるようになってきた。

これまではコントロールできない範囲のことにひどく時間を奪われていた。

文字通り、奪われていて、一時期は手も足も出せず、なされるがままだった。

今では逆になって、自分でコントロールできる範囲が増えている。

そして、それを増やそうとしている。

どんどん、楽しいことが増えてきた。

幸運な出会いがいくつもあった。

五感をすべて使う機会。

ワクワクすることができる日々。

相変わらず毎日は早くて今も全く追いつくことができていないが、味わうことを久々に味わっている。

 

そこに楽しさがある。

自分の見てみたい世界がある。そう期待して望むことができるということは幸せだと今、感じた。

そのような影響を、一人の人に、もしくは多くの人に与えることができる作品というものは存在するのだ。

そして、それを生み出す人、生み出すことのできる人たちが、しっかりとこの世界のどこかに存在しているのだ。

もちろんそれを届けてくれる人がいるからこそ出会えるわけでが、生み出す力を持っている人に、尊敬の念のようなものを感じる。

 

誰にも、どんな能力の目のようなものはある。

それを、自分に最適な形で、あるいは、世界に最適な形で育てるにはどうすればよいだろうか。

それは、育てられるものではないのかもしれないし、運やタイミングというものが関わっているのかもしれない。

だが、誰しもその芽を持っている。

そしてこの日は、私のためにあった。

 

2017.2.24

広告を非表示にする

書かなければ

いろんな選択肢はある。

目の前にある。

手の中にある。

これを有効に使えるかもしれない。

ただの作業になるのか、仕事になるのか。

報酬を得る手段とするのか、見返りのない苦痛とするのか。

 

そんなことを考える必要が実際にはないのかもしれない。

考えたら何かが変わるのかもしれないが、そこまで向き合ったことがない。

 

では、今なぜこのことをしているのか。

そうせざるをえないからだ。

それだけが理由だ。

この文章を誰が読むのか。

読んだ人は、何のことについて、自分がどれだけのことを論じようとしているのか、どこまで読み取ることができるだろうか。

どんな心境で、どこで、どのようにこの文章を書いているか気にすることはあるだろうか。

普段、本屋文章を読む時に、他人の文章についてそんなことを考えたことはなかったなと今思った。

大きな机に向かって、朝6時頃書いたのか。

そんなことは思わない。

その人の個人的な経験を反映しているな、こんなメッセージがあるな、というようなことは考えてしまうし、読んでいて感じてしまう。

それは避けられないことだ。

 

このパソコンを買ってからどれくらい経つだろうか。

もう、使い始めてから五年目になるだろうか。

長い時間を過ごしてきた。

とてもとても長い時間だ。

人生の5分の1。

そう考えると非常に長い。

それでも、文を書いている時には目の前の時間としか向き合えない。

とにかく今は、書かなくてはならない。

時間が足りない、ねむい、ゆっくりしたい。

いろんなことを考えることもできるのだが、今は書いている。

誰に頼まれたわけでもないが、ということではない。

自分に頼まれている、というのは少し変わった表現のように感じるが、そのような表現が正しいのかもしれない。

 

いまは、とにかく書かなければならない。

何かが、いや、あらゆることが追いついていない。

一心不乱に書き続けている。

久々に机に座った。

一年前は1日何時間も机に向かっていた。

その時間は本当に長かった。

 

いまでは、そんな時間がほとんどない。

一週間でそのような時間を作れる日がほとんどない。

間に合わない。

だからこそ、それでも書かなければならない。

読まれることが重要ではない。

文字にして、描かれることも重要ではないのかもしれない。

最も大切なことは何か。

こうして目の前の時間と、自分と向き合って、勝手に対話が終了することだろうか。

そしてそれは、自分にとって書くということで実現されるのだろうか。

 

2017.2.23

広告を非表示にする

2.22 心が離れること

離れた心。

 

一度離れた心は戻らないという。

どこまでいったら離れるかという問題はもちろんつきまとう。

一度、少しだけ離れる。

人間関係なら、付き合っていた人との関係を解消する。

それでも、何週間か、何ヶ月か経って元に戻る。

この場合、心は離れていなかったのだろうか。

一度は完全に離れた。

それが正しい表現なら、また戻ることはなかっただろうし、一度は、という表現もおかしいだろう。

だから、それは、離れていなかったということになるのだろう。

 

どこまでいったら、もう戻れなくなってしまうのだろうか。

そのような経験を、人生でどれほど体験するだろうか。

自分の人生を振り返ってみる。

また他の人はどうだろうかと考えてみる。

物理的にも、精神的にも繋がりというものがある。

それは、人にとってはとても重要なものだ。

つながりが多くて、太くて、しっかりしていればいるほど良いというわけではないのかもしれない。

細くて、今にも切れそうに見えるのだが、長い間切れてこなかったような絆やつながりをたくさん持っている人だっているだろう。

それらに対して、誇りを持っている人もいればコンプレックスを持っている人もいる。

 

心は、ほとんどどんなものに対しても、一度は離れてしまうのではないかと、私は思う。

いつまでもつながりを保つものは本当にわずかで、その人の一生の中でも両手にある指の数に満たないくらいではないだろうか。

人だけでなくても、ものでも、事象でも。

どんなものと自分が繋がっているかがすなわち自分である。

それをどうとらえるかが、自分がどのように生きているか感じているかである。

 

またしても近頃、一つのことから心が離れた気がした。

私は、心が離れるという経験を数多くしているわけではないが、その数は少なくないと思っている。

よく、これまでいろんなものから離れてきた。

その時の気持ちや、離れたと感じることをよく覚えている。

だが、離れることは私にとって悲しいことではない。

 

一度、大きすぎるものを失いそうになったことがあった。

でも、それは戻ってきた。

あの時は怒りが大きく私を支配した。

結果的に、戻ってきて、つまり、離れることがなくて良かったと思う。

あの時あのつながりを失ったらと思うと、よくわからなくなることが増えてしまう。

 

それを除いて、特に離れることの悲しみはなかった。

より大切なものに向かっていく、自分のことをよくわかっていけるようで。

もっと、たくさんのものと離れ、数少ないものとの絆を大切にしていくのだろう。

 

2017.2.22

時代

時代に翻弄されること。

昔はそれが当たり前だったのではないだろうか。

昔の漫画を読んでそれを強く感じた。

たくさんのことを学ぶことができる。

政治から宗教まで、今はない戦争のこと。

貧しさや繁栄について。

今、自分が体験できないようなことがたくさん書いてある。

違う時代の、違う場所の話だと強く感じるが、それはその通りだ。

けど、今がその時代だったかもしれないとも時々思う。

その時代に生きていた可能性があったのだと。

そして実際に、そのような時代を生きてきた人がいる。

その時代の体験を話すことができる人も、数は少ないが実際に存在するのだ。

それはとても信じられないようなことだが、そのようにして歴史は引き継がれてきたし時代は進んできた。

そう思うと、人間の歴史も信じられないようなことの積み重ねだ。

同じようなことを、違う時代の違う人が繰り返しているだけなのだろうか。

 

時代に翻弄されているとは、それほど思えない。

自分で判断したりする余地が、今の時代はとても大きいと思う。

自分以外からの影響にそれほど苦しんでいた時代があったとは、少しだけ信じがたい。

昔の人は、自分よりも自分の所属する集団や生まれた場所に強い影響を受けていたのではないだろうか。

そうとしか思えないような表記で溢れている。

そこで味わった苦悩がビシビシと伝わってくる。

俺はこんなのは嫌だった。

何かを変えたくて仕方なかった。

悔いている。

そのようなことも少しは感じられるのだが、最も感じるのは、その影響は避けられないものだったというようなことだ。

本当に、圧倒的だったのだろう。

今の時代に生きている人には全くわからないくらいに。

 

大きすぎる力や時代のなみんながされて、その一人として生きる。

今もそれはそうなのだが、その程度というか方向が異なる。

まとまりが小さくなってきているし、個人の大きさも変わったのだろう。

 

どこに行くか、誰と生きるか。

何に命をささげるのか。

自分の命、生き方は他人に操作されたり決めるものではなくて自分ので選択するものだという考えはいつから生まれたのだろう。

そのように考える人が多い時代もあって、一時期減って、また増えたり。

そんな調子で繰り返されているのかもしれない。

 

読みおわて感じることは、その時代の圧力や流れからはどうしても避けられなかったというメッセージだ。

とにかうそれはそういうもので、どうしようもなかったというような。

 

今は、どうだろう。

どんな時代なのだろうか。

それを記すことができる個人になれるだろうか。

 

2017.2.21

広告を非表示にする

毎日

今日と明日。

明日になったらがんばろう。

明日できるだろう。

明日は今から見れば明日だが、明日になってみれば今日になる。

つまりは今日の積み重ね。

本当は先というか、今を生き続けることしかできない。

だから、これからやろうと思い続けていてはずっとできないことになってしまうかもしれない。

できることを、できる時に。

明日は来ないかもしれない。

そんなことは誰も知らないのだけど。

少しでも、少しだけでも今日のうちに進んでいくこと。

そのいい差な積み重ねでしか、どこかに向かっていくことはできない。

或る日突然、大きな変化が生まれるわけではなくて、或る日突然、大きな変化のきっかけに出会うこと時は会うだろう。

外からの変化に対応できるかは、日々の積み重ねによる。

だが、焦るだけが良いことでもないのは明らかだ。

例えば、疲れをとったり体調を良くするためにはたっぷり寝ることも必要だ。

睡眠をまとめてとることは難しい。

まとめて睡眠時間を確保したとしてもそれが健康につながるとは言い難い。

毎日しっかりと、十分なだけ寝る時間を確保し続けることが重要なのだ。

一気に進むことはできないのかもしれない。

日々の、限られた時間の中で着実に一歩ずつ、少しづつでも進んでいくことが自分の中での大きな一歩になっていくのだろう。

それを感じることができるのか、それを信じることができるのか。

毎日は続いていて、終わりが来るまできっと続いていくのだろう。

誰が止めてくれるわけでもない。

 

もし今日が本当に最後の日なら。

それはそれでとても悲しいことではあるが、笑顔が増えるのではないか。

感謝も増えるだろう。

大切な人に対して、伝えるべきことがあるだろう。

もう、その人と今後二度と会うことがないと知ったら、どんな別れ方をするだろうか。

最も伝えるべきことはなんだろう。

相手をののしることか。

それほどに誰かを憎んで生き続け絵tきた人もいるかもしれない。

けど、私はそうではない。

笑顔で別れたいと思うような人としか付き合っていないのかもしれない。

もっと美しい空を見上げるだろう。

最後の日が曇りだとしてもそこに美しさを見出すことができるだろうか。

まだ、感謝を十分にできていないと感じている自分がいるのだろう。

もっと、笑顔になって、美しい景色を見ておくべきだと考える自分がいるのだろう。

それを今日やっていけばいい。

ほんの少しだけど、できることを毎日やっていく。

実際はそれしかできないし、毎日が最後なのだ。

 

2017.2.20

広告を非表示にする

自分の役割

自分の役割について。

今日はここまで書こう。

一つのことについて長く書こうと思ったのだが、そうもいかない。

時間の制約というものは人の考え方を変え、行動を変えさせる。

 

最近嬉しかったこと。

人と会って、今までに見たことのないような世界を見ることができた。

期待、予想をほとんどしていなかったということはあるが、一般的なものではないものに出会えたことによって得られた感動はあまりにも大きすぎた。

まさか、こんな1日になるとは、と驚くようなことで溢れた1日を過ごすこととなった。

 

一つ目、優しさ。

「優しそう」という言葉をいただいた。

やさしいと言われたわけではないが、それと同じくらい嬉しいことだ。

以前、優しさについて考え、感じたことがある。

優しさがなけれれば、生きている意味はないと思えるくらい、優しさは自分にとって重要なことだと認識したことがあった。

自分がそう思ったし、そのように育てられてきたと強く感じることがあったからだ。

確かに、生きている上で優しさを失ったら、同時に失うものがあまりにも多すぎる。

優しさはすべての基本で、自分を作り出す最も重要なものだ。

どんな人にも、どんな時にもと完璧に来そうなれるわけではないが。

自分に対しても優しさというものは必要だ。

これからも、優しくあり続けたいと改めて思った。

 

二つ目、昔と今。

昔に学んでいたことが生きていますね。

と言われた。

そんなに深い意味はなかったと思う。

お互いの過去をそれほど知っているわけではないし、出会ってほんの少ししか会話をしていない。

しかし、その言葉をいただいて自分の中で感じることがいくつもあった。

そしてそれは、普段自分があまり考えていなかったことだと気付いた。

確かに、役に立っている。

そして今、自分はある程度昔の自分が望んだ場所にいる、そのことに気づいた。

強く望んでいたものや、軸からは外れていない。

正しい道に近づいていると感じられたし、できていると思えた。

自信を感じた。

 

最後に、多様な視点。

自分の役割は決めることではない。

他に、決めることが得意で、そのことが好きな人がいるので、そこは任せることにする。

多様な視点を示すこと。

楽しく考え、裏側のことを思い、遊んでみること。

これには普通の人よりも時間がかかるし、結果につながらないことも多い。

だが、そここそが自分のいるべき場所。

異なる面白さを、他人と一緒に探していくこと。

そしてそのヒントを提示するために、私はいる。

 

 

2017.2.19

広告を非表示にする

冷たい息

もう春が近づいてきた。

昨日の夕方はとても空気が暖かかった。

春が近づいてきているのがよくわかった。

すべての動物が、それをはっきりと認識できるような風だった。

雨交じりにもかかわらず、むっとした空気。

冬の空気、透き通って透明で、胸の奥にささってくるものとは全く異なる。

冬のそれは、キラキラ輝いていて軽いイメージだが、昨日の風は全く違った。

下から吹いてきて、上に上がっていく風。

とてもとても重くて、体に巻き付いてくるよう。

言葉を漏らさずにはいられない風だった。

春が来た、と言わざるをえない風。

 

日々、日の出が早くなっていく。

太陽の明るさの種類も変わってきたように感じる。

そのまぶしさ、力強さ。

冬は限られた時間の中で太陽の光を味わわなければならなかった。

その暖かさが嬉しくもあったがあまりにも貴重なので惜しくてしょうがないという気持ちが強かった。

この太陽の暖かさを逃さないように、しっかりと味わわなければ。

自然とそんな気持ちになるものだった。

 

今では、目がさめる頃には世界が明るくなっている。

これほどかというほど、光が満ち溢れていて、太陽は眩しい。

赤と黄色の色が強い。

カーテンはその光を完全に遮ることはできない。

それでいて、部屋がすぐに温まるわけではないので、部屋の中はまだ冬のようだ。

だが、確実に春が訪れていることはこの光が証明している。

夏に向かっていくぞと強く宣言しているような日の光。

部屋の元気もどこか力ないように感じてしまう。

 

けさ、自分の吐く息がとても冷たかった。

二回目の目覚め。

横になったまんまで。

普段息をしていることに細かく注目することはない。

前、いつそんなことを考えたか思い出すことができない。

マスクをして、外して、呼吸が楽になることを感じたことがあるが、せめてその程度だ。

けさ、自分の吐く息がとても冷たかった。

とてもとても冷たくて、何度か息を吐いて確認をしてしまった。

何を確認したわけでもないのだが、冷たい息を味わってみた。

恐ろしくなるくらい冷たかった。

それはまだまだ冬の空気だった。

空が明るくなろうとしているのがわかる。

そこは冬と異なり、もう春が来ていることを告げている。

しかし、この部屋の中はまだ冬なのだ。

 

こんなに冷たい自分の息を味わった記憶がない。

本当に冷たかった。

自分の、生き物がはき出すような息だとは思えず、何度かそれを味わっていた。

また、こんな冷たい息を味わう日が来るのだろうか。

 

2017.2.18

広告を非表示にする