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Catch Up

ついにこの日が来た。

やっと、最低限というとこまで追いついた。

ここに来るまではたくさんの時間が流れた。

遅れをとり、その遅れがやっとなくなってきた。

またこのようになる時期も来るかもしれないが、できるだけ避けよう。

そうならないような自信もどこかしらある。

今回のような遅れをとったのは久しぶりだ。

しかし、これは重要なことだ。

諦めずについてくることができてよかったとは強く思わない。

特に誇らしくもない。

だが、これが非常に重要だということは自分でもわかるし、進んでそのように認識していきたいと思う。

クリスマスの頃に、こうしてまた文章を書くようになった。

書いている量としてはそれほど多くない。

1日に1000文字分。

一週間、一ヶ月で考えていくとそれほど長くはない。

文章をその場で考えながら打ち込んでいく。

もしくは、打ち込みながら考えている。

毎回感じるのだが、この文字数は読み手としては非常に少ないが、書き手としては短すぎるわけではない。

時間としては書くのに10分ほど。

読むのはもう、ほんの時間もかからないほどだ。

頭の中を垂れ流しているだけかもしれない。

しかし、時には素晴らしい表現が生まれる。

もちろん、自分がそのように感じるという意味であり、他人のことはわからないのだが。

クリスマスの頃は、もっともっと余裕がなかったのだろう。

あの頃は非常に苦しかった記憶がある。

ストレスが溜まっていた。

自分で、自分だけではコントロールできないことがあまりに多かった。

と言っては陳腐だが、コントロールできないと思っていることは間違いなく多かったし、実際にほとんどできずにいた日々が多く、落ち込まざるをえなかったようにも思う。

それともう一つ、どこまでも心が燃え尽きていた。

とてもとても長い時間を無為に過ごしてしまっていた。

どこにもエネルギーがなくて時間だけがその隣を音もなく足早に流れていった。

もちろん帰ってくることはかった。

そんな中でも、記憶はないものの、自分も書き続けていたのだろう。

それはそれは、とても良いことであった、とこれからもいえるであろう。

どれだけの宝が生まれたのだろうか。

それは、これからの自分の人生の中に出てくる。

それを見逃さないように。

素敵な出会いが、またこれからたくさんある。

その目をどうか、自分で無理に摘まないようにしてほしい。

世界がどんな風に回ろうとも、希望を持てるのはあなたなのだから。

だから、これは是非、続けてほしい。

 

 

2017.3.28

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Always All Right

もっと、もっと。

世界の良い面を見た方が良いのではないだろうかという自分への提言。

毎日いろんなことがある。

悲しいことだって時々はあるし、その悲しみが深すぎることもある。

だが、良いことの方が目に入る。

人間はそのようにできている気もする。

それは間違いかもしれないが。

悲しみばかりに目を向けて、それに耐えられるという人もそれほど多くないのではないだろうか。

どうなのだろう。

悲しみと向き合い続けることも、それはそれでとても疲れる。

多くの体力を必要とするし、強靭な精神力という、名前ばかりで実態はよくわからないものが必要とされる。

そして多くの場合、自分だけではやっていけないので、周りや専門家と呼ばれる人たちの助けが必要となるのだろう。

しかし、それは喜びでも同じだ。

ほとんどの喜びも、自分だけで成り立つことは少ない。

自分がしていることが人とつながっていくこと。

自分が影響を与えていると実感できて、自分も影響を受けていると感じられること。

コミュニケーションがとれること。

そんな双方向の交流が存在するし、誰かにお世話になっていることは明らかで、悲しみのそれとあまり変わらないのかもしれない。

 

ふと、世界を見ている。

なんとなく、特に深い思い込みを持たず。

なにが頭に、心に浮かぶだろうか。

基本的に、苦しもう、悲しもうとする人はそれほどいないのではないだろうか。

それらを求めている人は、それらを苦しみや悲しみと呼んでいないようにも考えられる。

そう、他人からは呼ばれていたり一般的には見えるものが、それらを求めている人たちにとっては喜びや救いなのかもしれない。

自分であらゆることを選択して良いとしたら、するとしたら、皆心地よいものを周りに集めるのではないかと思う。

例えばそれは好きな音楽であったり、今目の前にあるものであったり。

いま、あなたの目の前にはなにがあるだろうか。

心地よい環境をどこまでも求め続けていくのが人間なのではないだろうか。

聴きたい音楽を流す。

あったかい布団に入る。

エアコンをつけて空調を整える。

空気清浄機を使用する。

そう、電気が当たり前のようについているがこれもその一つだ。

楽しいことをしよう、ずっとやりたくてできなかったことをしよう。

そうやって進んでいくのではないだろうか。

悲しみばかりに目を向け続けることは、ある意味できない。

だから、命を絶ってしまうこともあるのだろう。

周りを見回してみて。

Always All Right.

 

2017.3.27

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日を記す

あまりに当たり前のように時間は流れていく。

それを誰も止めることができない。

ここ一年、その時間の流れはさらに早くなったように感じる。

そうでもない、と誰かに言われてもそれは全く慰めにはならない。

実際に、自分の感覚以外に比べるものがないのだから、おそらく時間の流れは早くなっているのだろう。

1日を長いと思うことが少なくなった。

一年前の今日はなにをしていただろうか。

たっぷりと1日を振り返る時間が、まずそこにはあった気がする。

朝目覚めてから、1日をどのように構成しようか考えていた。

机に向かい、時間割を描くところから1日が始まっていた。

今日という1日を、どのように有意義に過ごすべきだろうかと考えていた。

それがうまくいかないこともあったし、うまくいかず数日苦しむこともあった。

ただ間違いないのは、そこにはたっぷりとした時間が流れていたということ。

いまでも、あの時のような暮らしが良いのではないのかと思う。

自然に生きていたはずだ。

一度そのように生きてみないと、自分がどんな人間なのか、どのような生活が適しているかというのはわからない。

頭を空っぽにしたり働かせたり、そこにさというか、オンとオフのようなものがある方が自然なのかもしれない。

 

日を記すこと。

記録しようがしまいが毎日時間は流れていく。

そしてそれを誰も止めることができない。

忘れてしまって良い1日など存在するのだろうか。

存在するのだとしたらなんだか悲しい。

そしてそれは、非常におかしい気がする。

そんな1日、いらなかったというような1日。

それはそのまま、丸ごと自分の生に対する否定のように聞こえる。

まるで、生きていても意味がなかったというように。

それとは少し異なるが、よく表現されるように忘れてしまいたいこと、忘れてしまいたい1日というようなものはあるかもしれない。

けどやはり、それは出来事のこともしくは出来事の連続を指すのであって、1日自体を消し去りたいというようなことはないだろう。

 

なぜ、日を記すのか。

まずは、毎日という決められた一つの単位を例として、時間に区切りを設けることで進んだり戻ったりするためではないだろうか。

心の整理をして、それを可視化するような。

そして、日々の出来事を記録し、記憶や感覚に反映させたり将来振り返るために。

記し続けて、早何年になるだろう。

死ぬその日はできないかもしれないが、死ぬその日までは遅れることなく続けていきたい。

 

2017.3.26

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読み書き

私は昨日それに気づいた。

文章を読むことが好きだし、書くことも好きだということを。

正確に言えば、書くことは嫌いではないという程度だろう。

そして、得意とは言い切れないかもしれない。

だが、文章というもの自体が好きなのは間違いがないように感じる。

もっともっと、書いて読んでいきたいと今思っている。

それは、自然に心の底から湧きあがってくる感情のようなものだ。

強いエネルギーを持って、宣言をしているのではなく、自然とそう思っていることなので特に負担はない。

ああ、そう感じているんだなあと自分でも落ち着いて見分けられるくらいだ。

 

帰りの電車でもたくさんの文章を読んだ。

書いてみればわかるが、文章を書くことはものすごい時間を要する。

まず、言葉を生み出すこと。

それ自体はそれほど時間がかからないかもしれない。

慣れていたり、好きだったり、得意だったらスラスラと文章は生まれてくるだろう。

だがしかし、それだけで終わることはほとんどない。

そこから言葉を選びなおす必要がある。

より適切な表現を選び出す。

言葉自体が間違っていないか、文を読んでいて流れがおかしくないか。

自分だけにつわた割るように書いていないか、何度もなんども読み返す。

事実につても確認する必要がある。

書いていることが正しくなかったら問題になる子tも少なくない。

事実自体も変わっていくのだが、客観的にそうなっていることは、できるだけそうなっているままに表現される必要がある。

それに対して自分がどう感じたかを書いて良いのだが、自分がこう感じているとはっきりと分かるように書く必要がある。

歴史だって変わっていく、と書くと変な表現になってしまうが、歴史の人s木だって常に変化していくから簡単ではない。

生まれた文章はいつか自分の手を離れる。

ああだこうだ言われてまた、少しづつ形を変えていく。

そんなプロセスを経て、誰かのもとに届いていくのだろう。

私はたくさんの文章を読むのが好きだ。

映画の感想なんていうものを書かせてみると、その人となりは即座に分かる気がする。

面白い文章を書けるか、というとおても排他的に、攻撃的に感じてしまうが、そのようなことがひしひしと伝わってくる。

どこまで映画のことを理解しているのか、その映画に関する文章を読んだ人がどのようなことを感じるのか。

つなげてさらに想像すること。

他のことをするよりも、読むことが私にとって重要だ、そして書くことも。

そのように感じた昨日。

 

2017.3.25

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Do

やりたいことをやる。

昨日も早く帰ってきた。

だが、早く寝てしまった。

体調があまり良くない。

体が非常に疲れている。

ここ最近旧友からの連絡が非常に多い。

あまり人に会わない自分としては異例のことで、とても面白いのだが、今までにないような種類の疲れもたまってきているのかもしれない。

そういえば、昨日はあらゆることが怖かった。

一人になってしまったらどうなるのだろうか。

そんな悩みがふと自分を襲ってきた。

目覚めた時にそのようなことを考え出して、少し抜け出せなくなった。

どこまでも孤独なことを考えた。

気持ちを吐き出す。

吐き出すことができるのはとても重要で、それにより助かることは多い。

だが、何の返事のない状態が続くと余計に悲しくなってくる。

昨日は自分がどんな人間なのか気づいてハッとさせられた。

これは自分だし、自分はこのような人間でしかないと思ったが、それにしても悲しくなった。

とても迷惑を掛けていたように感じた。

 

今、早く起きて文章を書いている。

少し考えてみただけでやりたいことがたくさん浮かんできた。

寝ることはとても好きだし心地よいが、それ以外にもやりたいことがある。

起きて、時間が限られていることを感じているからか、ああ、あれもこれもありたいと思っているのかもしれない。

すべてできたらなにをするだろうか、すべてが終わったらなにをするのだろうか。

とりあえず寝るのかもしれない。

そう書いてみて思ったのだが、まだまだやっていないことが多すぎる。

エネルギーに波があるのはなぜだろう。

あるときはやる気もなにも全くなくなってしまう。

動けなくなるし、体から停止信号が発信されているように感じてしまう。

大体はそれに従うしかない。

とりあえず休んだり、横になったり眠ったり。

そうする他には選択できないこともある。

 

今、なにをやりたいだろうか。

気にかける人の数が前より少しづつ増えてきたような気もする。

そうやって大人になっていくのだろうか。

だが、最も身近な人のことをしっかりと大切にしていこう。

感謝して、笑って、恩返しして。

優しくなれたら良いと思う。

 

優しくされたことがない人は案外多いものだから。

大切な人を大切に。

 

そして、自分は自分でやりたいことややるべきことがある。

それは少しでも進めていくこと。

それが自分という人間を保つことになる。

それが自分を進めることになる。

そしてできることは増える。

もっと優しくなれるだろう。

 

 

2017.3.24

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悲しみ

悲しみを感じ取ること。

今日はとても悲しいことがあった。

自分はそれは嫌だと思った。

同意できないという思い。

やりたくないと感じた。

それでは仕方ないだろうと。

責任というよりも感覚なのかもしれない。

だが、確実に嫌なことだった。

嫌なことをやらなければならないから悲しいのではなくて、王なってしまったことが悲しかった。

コミュニケーションが全く取れていない。

 

なにを優先するべきだろうか。

それは時によって変わっていくだろう。

常識と呼ばれるものもあるだろうし、そんなのが全く関係なくなるときもある。

どうすれば良いのだろうか。

それを判断し行動できるのが人間なのかもしれない。

だが、実際はすべて反応してるだけなのだろうか。

それでも自分で考えて行うのと、そうでないのとは大きな違いがある。

 

内を優先するのか、外を優先するのか。

長期的な仕事に目を向けるのか、直近のことばかりを行っていくのか。

わからにことはいつまでもわからない。

聞けばいいというかもしれないが、なにをどこまで聞けば良いかも自分で判断しかねる。

モチベーションの管理について面白い記事があった。

確かに、管理は自分だけで行うものではないかもしれない。

時に、それでは限界がきてしまうだろう。

 

私は、その場所でほとんど笑ったことがない。

心の底から楽しめていないからだろう。

悪いことが起こるのではないかと思ってしまう。

いいことがあったとしても、それだけでは終わらない。

いい時だけ笑って、楽しんで、調子に乗って過ごすのはとても嫌なことの一つだ。

そのあとが怖いというよりも、しっかりと悲しまないのにしっかりと喜ぶことはできないと思う。

自分の都合で、気分だけで、特にいいところだけに焦点を当てているようではどこにも進めないと思う。

利害の関わっていないとこでそのようにやったら良いと思う。

 

とにかく今朝は、怒りよりも悲しみが多かった。

言っていることはわかるが、そこまでに至るにあたりどのような経緯が存在していたのか。

誰がどのように勧化行動してきたのか。

他になにを思っているのかという想像力が不足している。

自分の考えだけを表明しているようでは、自分の考えている範囲に到達するのがやっとだ。

それなら自分でやったらいい。

 

悲しいときはしっかり悲しむこと。

いろんなことに鈍くなっていく必要もある。

それでも、感覚を失ってしまったらおしまいだ。

なぜそれが嫌なのか、悲しいのか。

そこに自分がある。

 

 

2017.3.23

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10,000

今日は10,000文字以上の文章を書いた。

それでも、追いついていない。

そう考えると日々の積み重ねというものは非常に大きい。

大きすぎるほどに大きい。

1日にどれほどの物事を詰めていけるだろうか。

少しでも多くの音楽を聴くこと、景色を見ること、味わうこと。

少しでも良いと思えるものに触れていくことが大切なのかもしれない。

一文字でも多く書くことは大切ではないだろう。

それよりも、納得したものを書くことができるかが重要なのだろう。

しかし、今日は大きな前進があった。

なんせ、10,000文字分も、自分のことを表すことができたのだから。

それは、とてつもなく大きなことだ、自分にとっては。

自分にとって重要な物事で、自分の人生のほとんどが構成されている。

そう書くと、傲慢なように感じる、というようなことは起こらない。

それは、とても個人的なことだから。

今日これだけ進んだのだが、まだ終わっていないこともある。

いつになったら追いつくのだろうか。

でも、ゴールは近づいてきている。

今日できると思える分を少しづつだがしっかりとやっていこう。

また、書き出したら気が遠くなってしまうかもしれないが、進んだ分もしっかりと評価していいのではないだろうか。

自分しか評価する人は存在しないのだから、しっかりと褒めてあげるのも自分の役割だ。

懐かしいものにたくさん出会った日だった。

そんな日にたくさん進むことができた。

そして、今日の日もまた、懐かしい日の一つとして記憶されていくのだろうか。

これまでどれほどの日が積もってきたのだろうか。

 

どんどん、やりたいことはやっていけば良いと思った。

そのように世界を見たいと思うのなら、そのように見たら良いと思う。

ほとんどの人が、自分をきっかけとせずに、自分を変えることはできない気もする。

他人に対して出来ることは非常に限られているのではないだろうか。

そう、やりたいことからやる人生というのもとても良いと思う。

自分が楽しかったら良いだろうし、それを他人ともやっていけたら素敵だろうな、と思えるならそうしていけば良いのではないだろうか。

夢を叶えるために寝る、とは自分は思ったことがなかった。

でも、生きていれば考え方はどんどん変わっていく。

できないこともいつかはできたりするかもしれない。

そんな希望が人を動かすし、時々苦しみや悲しみで交代したりもする。

けど、今日も生きていた。

だからこうして文が書けた。

感謝。

 

 

2017.3.22

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